原始時代の台東区は、武蔵野台地の半島、入江、海、島によって形成されていました。
これを現在の地形、知名でいうと、半島は上野から谷中へと続く高台、
入江は上野・本郷両台地にはさまれた低地と不忍池、海は下谷と浅草の一帯、島は待乳山と鳥越付近に相当します。
本区の大部分を占めていた海は、現東京湾がさらに湾入していたところから奥東京湾と呼ばれています。
縄文時代以後、この地に利根川・荒川・入間川が合流したかつての隅田川が、土砂を運び続け、
川下の両側が陸地化しました。人が住むようになったのは弥生時代、現在の上野公園付近とみられています。
平安時代には、すでに交通上の要衝の地となっています。
東京最古の寺で、その縁起は推古天皇36年(628)、
地元の漁師が宮戸川(隅田川下流)で聖観音を引き上げたことによります。
これが今に伝わる浅草寺の本尊です。天慶5年(942)に平公雅が浅草寺にお堂を寄進したり、
治承4年(1180)に源頼朝が隅田川岸に陣をはり、浅草寺に祈願したなどの記録が残ってます。
家康は浅草寺を祈願所に、芝の増上寺を菩提寺に定めました。
この頃、江戸は、陸地化された湿地帯が多かったといいます。
下谷・浅草あたりには、ようやく村落がみられたという程度でしたが、
家康入府で、急速な発展を遂げることになります。
寛永寺は三代将軍徳川家光が天海僧正に命じて、江戸城鎮護のための祈願所として創建したものですが、
のちにはその趣意が変わって徳川家の菩提寺になっています。
明暦の大火以後、浅草寺の裏手に遊里が生まれ、また猿若三座の名で知られる芝居町もつくられ、
浅草は江戸庶民の娯楽を集めた盛り場としてにぎわうようになりました。
上野には寛永寺、浅草には浅草寺。この格式の高い2つの寺を含む文化、庶民娯楽の集中によって、
上野・浅草は大きな発展を続けるようになります。